回復期における心の中の出来事への対応:自宅で実践するディフュージョン
回復期においては、さまざまな思考や感情が心の中に湧き上がってくることがあります。過去への後悔、未来への不安、自己否定的な考え、苛立ちや悲しみなど、それらの「心の中の出来事」に圧倒されたり、囚われたりしてしまうと、回復に向けた前向きな行動が難しくなる場合があります。
しかし、心の中に湧き上がる思考や感情は、必ずしも事実そのものではなく、「心の中で起こっている現象」として捉えることができます。回復期においては、これらの心の中の出来事とどのように付き合っていくかが重要なセルフケアの一つとなります。
ここでは、「ディフュージョン」と呼ばれる、思考や感情との適切な距離を取るための考え方と、自宅で実践できる簡単な訓練方法についてご紹介いたします。
ディフュージョンとは何か
ディフュージョン(Diffusion)とは、心理学的な用語で、「思考や感情から離れる」「融合を解消する」といった意味合いで使われます。これは、自分の思考や感情を「自分自身」や「絶対的な真実」と同一視する状態(フュージョン:Fusion)から離れ、それらを単なる「心の中で湧き上がってきた言葉や感覚」として観察できるようになることを目指すアプローチです。
例えば、「私はダメな人間だ」という思考が湧いたとき、フュージョンの状態ではこの思考を事実として受け止め、自分自身が本当にダメな人間だと感じて苦しみます。一方、ディフュージョンの視点を持つと、「私はダメな人間だ、という思考が今、心の中に湧いているな」というように、その思考を客観的に観察できるようになります。思考の内容そのものに巻き込まれるのではなく、思考が「ある」という事実、あるいは思考を構成する「言葉」そのものに注意を向けます。
この視点の転換により、思考や感情に支配されることなく、より柔軟に状況に対応し、自分が大切にしたい方向(価値)に基づいた行動を選択しやすくなることが期待されます。
なぜ回復期にディフュージョンが役立つのか
回復期には、病気や状態の影響で、ネガティブな思考や強い感情が生じやすい傾向があります。これらの心の中の出来事に囚われてしまうと、以下のような困難が生じることがあります。
- 行動の制限: 不安な思考に囚われ、外出や人との交流を避ける。自己否定的な思考から、回復に向けた活動への意欲を失う。
- 苦痛の増大: ネガティブな思考や感情を事実と見なし、苦痛を深める。
- 問題解決の停滞: 思考内容に固執し、客観的な状況判断や柔軟な問題解決ができなくなる。
ディフュージョンは、これらの困難に対して、思考や感情の内容を変えようとするのではなく、それらとの関係性を変えることでアプローチします。思考や感情が湧くこと自体は自然なことであり、それを否定したり排除したりするのではなく、「そこに存在することを許容し、客観的に観察する」ことを通じて、心の中の出来事に振り回されずに済むようになることを目指します。これにより、心理的なスペースが生まれ、回復に向けた建設的な行動にエネルギーを使えるようになることが期待されます。
自宅で実践できるディフュージョンの簡単な訓練方法
ここでは、自宅で手軽に実践できるディフュージョンの基本的な練習方法をいくつかご紹介します。これらの方法は、心の中に湧き上がる思考や感情を異なる視点から眺める練習です。
1. 「〜と思っている」「〜という感情がある」とラベリングする
湧き上がってきた思考や感情を、そのままの内容として受け止めるのではなく、「これは思考だな」「これは感情だな」とラベルを貼る練習です。さらに一歩進めて、それを「〜と思っている」「〜という感情がある」というフレーズを加えて表現してみます。
実践方法:
- 心の中に何らかの思考や感情が湧いてきたことに気づきます。
- 例えば、「私は何もできない」という思考が湧いたら、心の中で「『私は何もできない』という思考が今、湧いているな」と唱えてみます。
- 不安な気持ちが湧いたら、「『不安だ』という感情が今、心の中にあるな」と表現してみます。
- これは、思考や感情の内容そのものではなく、「思考や感情が心の中で起きている」というプロセスに意識を向ける練習です。
2. 思考を「心の中の出来事」としてイメージする
思考や感情を、文字やイメージとして心の中に描き出し、それを客観的に眺める練習です。これは思考を「脳が作り出した単なる情報」として捉えやすくするのに役立ちます。
実践方法(例):
- 雲に乗せる: 湧き上がってきた思考を文字として雲に乗せ、それが空を流れていく様子を想像します。
- 電車の窓: 心の中に次々と浮かぶ思考を、電車の窓の外を通り過ぎていく景色のように眺めます。
- 文字として見る: 思考を特定のフォントや色、大きさの文字として想像し、ただそれを眺めます。奇妙な声(漫画のキャラクターの声など)で思考を読んでみるのも効果的です。
- 画面に映す: 頭の中に思考が映し出されているスクリーンを想像し、その思考をスクリーン上の文字として見ます。
これらのイメージはあくまで思考を「心の中の出来事」として認識するための補助です。最もやりやすい方法を試してみてください。
3. 思考や感情に「感謝する」
これは一見奇妙に感じられるかもしれませんが、湧き上がる思考や感情を、戦う相手ではなく、何らかの情報を提供してくれる存在として捉える練習です。
実践方法:
- 心の中に何らかの思考や感情が湧いてきたことに気づきます。
- 例えば、過去の失敗に関する後悔の思考が湧いたら、「ああ、後悔の思考が湧いたな。ありがとう、何か学べることがあるかもしれないね」といったように、心の中で思考に話しかけるイメージを持ちます。
- これは思考内容に賛同するのではなく、「思考が湧いた」という出来事そのものに対して、ユーモアや客観性を持って反応する練習です。
実践上のポイントと注意点
- 効果はすぐに出ないことがあります: これらの練習はスキルを磨くようなものです。最初は難しく感じたり、効果を実感できなかったりすることもあるかもしれません。焦らず、繰り返し練習することが大切です。
- 思考や感情を排除しようとしない: ディフュージョンは思考や感情を「なくす」ための方法ではありません。それらが湧くことを許容し、それらとの関係性を変えることが目的です。抵抗したり、無理に消そうとしたりすると、かえって囚われてしまうことがあります。
- 無理は禁物です: 特に強い感情や苦痛を伴う思考が湧いている時に、無理に練習しようとするとかえって負担になる場合があります。そのような時は、安全な場所でリラックスすることを優先してください。
- 専門家のサポート: これらの技法は、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)など、一部の認知行動療法(CBT)に基づいています。ご自身の状態に合わせて実践することが重要であり、必要に応じて専門家(医師、公認心理師、精神保健福祉士など)に相談しながら行うことを強くお勧めします。
継続のためのヒント
ディフュージョンは、日常生活の中で意識的に取り入れることで効果が高まります。
- 気づきの習慣: 一日の特定の時間(例:朝起きたとき、夜寝る前、休憩時間など)に、心の中にどんな思考や感情が湧いているか、少し注意を向ける習慣をつけてみましょう。
- 簡単な練習: 思考に囚われていると感じた時に、すぐにできる簡単なディフュージョン(例:「〜と思っている」と心の中で唱える)を試してみましょう。
- 記録: どのような時に特定の思考や感情が湧きやすいか、ディフュージョンを試してみてどう感じたかなどを簡単にメモするのも、自己理解を深めるのに役立ちます。
まとめ
回復期において、心の中に湧き上がる思考や感情に巻き込まれず、それらを客観的に観察する「ディフュージョン」の考え方と実践は、心理的な柔軟性を高め、回復に向けた行動を支える有効なセルフケアとなり得ます。
ここでご紹介した簡単な訓練方法は、思考や感情を「心の中の出来事」として捉え直すための第一歩です。これらの練習を日常に少しずつ取り入れ、ご自身のペースで回復を進めていくための一助としていただければ幸いです。ただし、ご自身の状態に無理なく行うことが重要であり、専門家の指導やサポートも適宜活用されることをお勧めいたします。